年末の裁き・艱難と「全力」の意味

神様は毎年11月から12月にかけて年末の裁きを全人類に対して行います。その1年でやってきたこと、行動の裏の思いを踏まえて一人一人に応じた裁き・祝福をくださいます。

サタンによる攻撃も年末の裁きも絶賛進行中ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?

今回の話はかいつまんで言えば、一見絶望的に見える艱難・裁き・サタンの攻撃も、悟り、乗り越えることができれば逆に希望だし、古い自分を脱ぎ捨てるための最高の機会だった、という話です。

RAPTさんが年末の裁きについての御言葉を宣布されてから2週間くらい後、これからの人生がガラリと変わらざるを得ない変化がきました。

良ボスの辞職

変化の一つ目は職場の良上司が来年早々に今の会社をやめてしまうこと。

彼女が会社を辞めてしまうことについては、会社のトップが変わって以来その予感はありました。

異常なくらい偽善的で嘘と欺瞞ばかり。しかもトップのお友達による乗っ取りがほぼ完成した、という状態です。私が知ってるトップレベルの人たちはみんな辞めさせられたってくらい。

でもまさか1年で一番忙しいこの時期に辞めるとは思わなかった。

このニュースに私の部署には激震が走り、同僚たちがみんな不安と心配に沈む中、私も影響を受けて少々不安になってしまいました。

次にどんな上司が来るか全くわかりません。 仕事場は上司次第で地獄にもなりえます。

そんなわけでその日の明け方は心配と不安と恐怖を消す事に終始する羽目に。

最終的には不安も心配も恐怖も消すことができましたけど、サタンのしつこさには改めてびっくりです。

もしラプトブログの有料記事を通して神様との疎通の仕方を学び、自分を鍛えていなければ、この先何日も不安と心配で眠れない日が続いたかもしれません。

とはいえ、この件はもう一つの件と比べれば些細なことです。

上司の役職を一時的に任されてしまった

もう一つの変化。言われた時に血の気がひいたもう一つの変化は、私がその上司の仕事を一時的にやる羽目になったことです。

一時的な出世ですが、責任の重さや仕事の負担量、ミーティングやいろんな人からの「相談」が増加することで奪われる時間を考えるとうれしくありません。

引継ぎはほぼ終わったし、 まだ上司は辞めてないのに私の所にすでに色々なトラブル案件が舞い込んでくるので、気分はすでにディレクター。

試行錯誤を繰り返して、やっと個性と才能を伸ばすために必要な時間を確保したのに逆戻りどころか状況が悪化してしまいました。

ひょっとして仕事をやめろということ?と思って祈りましたがどうも違う。

というのも、上司がやってきた仕事には私の苦手分野があり、それを克服する機会であること。さらに他にもまだ学べることがあるから学べ、とも。

そうなると当面の問題は

  • いかにして二人分の仕事をきちんとこなしていくか?派遣を雇うつもりではいるけど使えるようになるまで多少時間がかかる
  • この状況下でどうやって個性と才能を伸ばし、神様の御心をなす時間を捻出できるのか?

一つ確かなことは、今までの私のやり方では霊的にも肉的にも確実に詰む、ということでした。

御言葉では「年末の裁き」の話が出たけれど、私の場合は年末どころか来年の4月くらいまでこの状態が続きます。

神様に見捨てられかけてるから条件を立てる環境が奪われることになったの?とも考えて心底怖くなりました。

それで色々と祈り求め、罪を見つけては悔い改め、気づいていない罪を必死にさがしつつ通勤中や隙間時間に過去の有料記事も読み漁りました。

そんな中、時間差はありますが沢山のことを悟ることができました。

それで今回本当に救われた。今でも問題は解決していないのですけど解決の糸口がみえているので、あとは私がやるかやらないか、ってだけです。

自分に頼ることの愚かさ

私が犯してきた間違いの一つは、未だに自分の力に頼って生きてきたことです。

信仰をもって以来、沢山のことを神様に相談し、答えを祈りもとめてきました。

でも、信仰および神様の御心とは関係ない今の仕事については「答えをもらえないかもしれない」と心の奥で考えていた節があります。

例えば答えを求めて祈ってもすぐには答えをもらえないのに、早急に何らかのアクションを起こさないといけないときには自分の考えでやってしまっていました。

それが特に顕著だったのが仕事中です。

上司が辞めることになるまでは問題なくやってこれたのですけど,いろいろと変化が起きている時に今の状況は私のキャパを越えてしまっています。

そういうわけで、自然と仕事も完全に神様に頼ることになりました。

以前に書いた自分を捨てることとピアノの話と似ていますが、仕事に関しても「自分」が入る余地がなくなりました。

ピアノの件で神様が求める「自分を捨てる」レベルを悟ったときに、その悟りを人生のすべてのエリアに適応しようとしたのですが、仕事に関してだけはすでに知識が身についているのにどうやってゼロから始めるのか分かりませんでした。それでずっと祈っていたんです。

あの祈りの答えがこれだったみたいです。

どんなに些細にみえることでも、すべての件について神様に祈って聞いて、答えを得てからでないとすべてを満足できるレベルで時間内にこなすことはできません。

祈ってすぐに答えが得られなかったとしても、答えが来るまで必死に祈り求めるべきなんです。答えが必ず来る、と信じて祈るのが本当に重要です。

答えが来るまで祈り続けた結果、時間が足りなくなったように見えても、神様と疎通しながら仕事をすれば必ず時間内に終わらせてくださいます。

そんな体験を先日しました。

「全力」のレベル・意味をはき違えていた

私が犯してきた間違いの二つ目はタイトルの通りです。

私が信仰を持ったのが40近くのことです。ですからその長い時間の中で、沢山の悪習慣や物事の取り組み方が身についてしまっていました。

そんな悪癖のひとつが「力の温存」で、これは「心と思いと精神(要するに全力)を尽くせ」という御言葉に反します。

私には体力的にもメンタル的にも持久力がないので、全速力で走ったらすぐに息切れしてしまいます。

その息切れが辛いので、特に大人になって以降、力を温存しながら物事に取り組む習慣が知らず身についていました。

そうすることで疲労とストレスで倒れることなく持続的に動けるようにしてきました。

私はストレスがすぐに体にでるタイプで、中学生のころから胃潰瘍など色々な病気にかかりました。無理しすぎて病気で倒れてしまうと、回復した後追いつくのが大変なんですよ。

「全力で少しだけ走って回復に長時間かけるよりは、最初は遅くても同じスピードでコツコツと走った方が長期的には勝てる」という戦略はRAPTさんの御言葉を聞いてないひとには理にかなっています。

でもRAPTさんが伝える御言葉を信じている私たちには神様がついているのですから話が違う。

私たちは御言葉を通して神様に頼り、神様と疎通する術を学びました。

肉的に疲れたら霊的なことをやって肉体を回復させ、霊的に疲れたら肉的なことをやることで霊体を回復させることができます。

もちろん肉体には限度があるので無理すぎる無理は禁物ですけど、私たちは例えばストレスを解消するために旅行したり、暴飲暴食・快楽・享楽におぼれたり、週末に爆睡したり温泉やスパに行く必要はありません。

だから最初から全速力で走って途中で失速することを恐れる必要はありませんでした。失速を恐れていることすら最近まで気づいていなかったんですけどね。

なぜこのことに気付いたのか、というと、ダブル役職に就くことになった私の物事に取り組む姿勢や必死さ、集中力のレベルがそれまでの私とは明らかに違うからです。

現在の私は倍増した仕事の責任も果たしつつ、霊的な条件も妥協せずに立てていこうともがいていて、肉的にはかなり追い詰められています。なんせやることが多すぎる。

「追い詰められている」と思うから必死さのレベルが違うわけですが、この必死さが神様が求める最低限の「全力」のレベルなのだとわかりました。

今まで自分なりに必死だし本気だったのですが、力・エネルギーを温存することに慣れすぎていたのでしょう。

悪習慣・体質は本当に怖いものです。

古い自分を脱ぎ捨てる

そういったことを自分の中で消化している中で出てきたのが12月12日の御言葉でした。

「古い自分を完全に捨て去らなければならない」という話ですけど、それで今年の年末に起きたもろもろのことの意味が一気に氷解しました。

自分の間違っているところを変えることができるように、もっと必死に神様の仕事をやるように、苦手なことを克服できるように、自分に頼ることを完全にやめて神様だけを頼る習慣を作れるように、と神様が機会をくださったのだとわかりました。

何をするにも神様に聞いて、いつも神様を意識しながら生活し、何事でも取り組むときは「自分の生死がかかっている」レベルの真剣さと切実さで全速力で行動していけばいいのです。

もしこの新しい生き方を完全に体質化できたら、中継ぎの仕事が終わったあとにはもっと色々なことを形にできるようになるでしょう。

それが結構楽しみだし、現在肉的にはかなりきついのですけど霊的には幸せだったりします。

完全な愛の塊である神様に導いていただけている、と感じるだけでうれしいし、色々と新しいことを悟れることは本当に幸せで楽しいです。

最後に

今回も自分の体験をたどって書いてみました。このように神様と疎通し、どんなに辛い状況下にあっても幸せをかみしめ、将来への希望をもって生きることができる人生を送るにはRAPTさんが伝える御言葉に従う以外にありません。

今は終わりの時なので、大艱難は避けられません。

どんなに辛くても負けることなく心から喜んで生きられる生き方をしたくありませんか?

今は安倍政権がおかしな政治をして庶民の生活をどんどん絶望的なものにしていますが、神様が私たちの祈りをきいてくださっているのでイルミナティの終わりも近づいています。

ですがイルミナティが滅びたところで、悪人がこの世を支配し続けたら何の意味もありません。イルミナティでなくても小悪人はいくらでもいますから。

逆に、この地上の支配権を神様が取り戻す時、自分の罪を悔い改めないままでいたら、その人は裁かれて苦しい人生を送ることになります。

今回の証を読んでくださったあなたがまだ神様と出会っていないのであれば、どうか御言葉に導かれて、神様と愛し合って疎通する術を学び、神様に自分を成長に導いてもらえる幸せを知ることができますように。

RAPTさんの有料記事一覧はこちらです。

年末の裁き・艱難と「全力」の意味” への3件のフィードバック

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