祈りをより強力にするために:「危機感」と「命がけ」についての考察

先日の年末の裁きについての証の中で

答えが来るまで祈り続けた結果、時間が足りなくなったように見えても、神様と疎通しながら仕事をすれば必ず時間内に終わらせてくださいます。

そんな体験を先日しました。

当ブログ「 年末の裁き・艱難と「全力」の意味 」より

と書きましたので、今回はその件の証と、その体験をもとに祈りを強力にするために何が必要なのかを考察していくうちに悟れたことを書きます。

十分な祈りの条件を立てたら時間以内に仕事が終わった体験

良上司が辞めることになり、引継ぎだのシステムアクセスだの上司が行っていたミーティングに参加だの、例年にはない様々な事柄をやらなくてはいけなかった私。

12月中旬に締め切りがあった巨大プロジェクトも同時進行中で、こちらの進捗状況ははっきり言えば芳しくありませんでした。色々と慣れないことにストレスが溜まっていたのもありました。

夜11時くらいまで残業すればもう少し進捗状況もよかったのでしょうが、そうすると明け方の祈りができません。

それは嫌なので、明け方の祈りが守れるような時間にどれほど仕事が残っていても帰宅するようにしていました。

仕事よりも祈りの時間を優先したわけです。

締め切りは月曜日の12時。その前の金曜日はミーティングだらけで仕事が全く進まなかったので週末に賭けていたんです。

金曜日が終わった時点で仕事が4割ちかく残っていました。

3週間かけてやるプロジェクトですから4割となると1週間以上かかる仕事量です。でも残された時間は2.5日。

それで神様に「どこから手をつけたらいいのか」を必死に祈り求めて、霊感がくるままに従順にやっていました。

ところが、自宅で仕事をしたのが間違いだったのでしょうけど、VPNは何度も切れるし、ネット回線の調子も悪くて文書をセーブするのにやたらと時間がかかる。

VPNがつながらなくてPCを再起動しないといけなかったり、会社のシステムや私のPCのクラッシュもあったりしてなかなか思うように進まない。

問題が起こるたびに「またかよ」と思いながら、なんとしてでも時間以内に終わらせることができるように、と必死に神様に祈りました。

イライラとシステムの回復を待つより、神様に祈りをささげたほうがずっといいです。心に平安が戻りますしね。

とにかく、折があったら祈りました。だってもう完全に私の手で解決できる話じゃないから。なんとしてでも時間内に終わらないと本当にヤバいので必死でした。

それで月曜日の朝。

出社した8:30の時点でまだ2割ほどやるべきことが残っていました。こりゃ詰んだな、って思いますよね?

私も一瞬思いました(笑)

でもすごかったのがここからでした。

邪魔が入らないようにドアをしめ切って、いつもの朝コーヒーも飲まず仕事に集中していたら最終的には全部できちゃったんです。

しかも一度システムがクラッシュして一部を最初からやりなおさないといけなくなったのに。

良ボスにも見せて話して多少の修正をかけて、システムに入力してセーブボタンを押したのが11:59。嘘のような本当の話です。

あの時、「ゾーン」ともいえる精神状態に入っていて、次から次へと何をしたらいいのか思いうかびました。うまく表現できないのですが、あの状態はすごい。仕事に集中する一方で、そんな自分を俯瞰する自分もいました。

誤解を恐れずに言うなら神様と交信しながら一緒に仕事をできた感じです。 すべてが終わった時の時刻をみたらそう思うしかないです。あまりにできすぎている。

すごい必死に祈って、この件については十分に祈りの条件をたてることができたから神様が助けてくださったのだ、と思うしかありませんでした。

これから先厳しい練達が待ってる私に、祈りの条件に必要なレベルを実体験を通して見せてくださった、というのもあると思うし、それまでずっと御言葉に従順に従って仕事よりも祈りの時間を優先した、という条件があったから助けてくれたのもあるでしょう。

「成功」体験を分析してみます

このようなある種の成功体験があると、いつでも必要なときに追体験できるようになりたい、と思いますよね?

(12月30日追記:とはいえ、同じやり方にこだわってはいけません。古いやり方にこだわるのはサタンだ、と本日の御言葉で出ました。神様は常に新しい考え、新しいやり方がお好きな方です。今回の証は「成功」体験を検証しているだけ、とお考えください。How Toのつもりは元々ありませんでしたが…)

神様の仕事をするたびにこのレベルの集中力を発揮できたら、すごい勢いで神様への愛を形にできます。

というわけで、上記の体験のうち私がコントロールできる範囲だけを分析してみます。

実際に神様が力を貸してくださるかどうかは私が推し量ることではありません。

私は私ができる最大限をやるだけ。

力を貸していただけないとしても、それは神様の御心なのでその時はその時です。

(「成功体験」の構成要素)

  1. 達成したい明確な目標
  2. 締め切り
  3. 目標をなすために必要な知識・スキル・個性と才能
  4. 「神様は必ず助けてくださる」という信頼 と信仰心
  5. 神様への実に必死な祈り
  6. 「何が何でも終わらせる。あきらめない」という強い意志
  7. 「終わらせないとヤバい」という危機感

ここにあげた7つの要素のうち、1は大前提。ただ、やるべきことが沢山あったとしてもひとつに絞った方がいいと思う。

2:他人が関わる締め切りと自分との約束がありますが、もちろん他人が絡んだ締め切りのほうが責任も大きく必死度が変わってきます。

自分で定めた締め切りの場合は妥協できてしまうので、真剣度はどうしても前者より低くなる。

私は今年1年、あまりブログを更新できなかったのですけど、受けた霊感のままにやった情報拡散や調査の結果をブログを書くのが遅かった理由の一つはこれですね。

締め切りの欠如、といいますか。神様は時を急いでおられるのに、その心情を自分のものとしてこなかった気がします。

3:この体験においては必要なスキルはすでに身についています。個性と才能、スキルについて深く語りだすと今回の本題からズレるので割愛。

4:神様への信頼と信仰心がなければ、そもそも追い詰められたときに祈ろう、とすら思わないのではないでしょうか?たとえ祈ったとしても真心に欠けてるものになったと思う。

今年の年末の裁きで神様の御心とは直接関係ないことであっても、時間が足りなさそうに見えても答えが得られるまで祈る必要があることを悟りました。

悟れたことは早速実行するべきなので、実直にやりました。

5:神様への切実な祈りがあったから今回奇跡が起きました。これがなければ神様の力は決していただけません。

御言葉でも「肉的な条件を立てるよりも霊的な条件を先に立てろ」と何度も言われています。普通に見れば祈るより仕事をしていた方が早く仕事が終わりそうにみえますけど、実は逆なんですよね。

ー(突然ですが解説です)ー

先ほど「霊的な条件」という一般には聞き慣れないフレーズを出しましたが、祈りはこの「霊的な条件」にあたります。

この世界には肉界と霊界があり、肉界は霊界の反映なのだそうです。

つまり、この世の中(肉界)の状態を変えたければ霊界から変えないといけません。この世で生きている自分を変えたければ、自分の霊の状態を変えて、進化しないといけない、とも言えます。

自分の霊を進化・成長させるのに必要なのが、まずは神様を信じて自分の罪を悔い改める事であり、祈りなどの「霊的な条件」を立てていくことです。

今は終わりの時代で、人類にとっては救いの最後のチャンスです。RAPTさんが伝える御言葉を信じて従順に従うことによってのみ義と認められ、霊が成長・進化できます。

信じるか信じないかはご自由に…が、あなたが悟れることを祈ります。

ー(解説終わり)ー

5の強力な「祈り」の土台に4の神様への信頼・信仰心があって、6の「絶対にやってやる」という決意と7の危機感が祈りの強さに火をつける原動力になった、というところですね。

6:決意やあきらめない意思も極めて重要です。ただ決意の先にあるものが希望か愛か欲望の成就か危機感か、で結果に違いがあるのではないかとも思います。

今回の件において私は自分の名誉が欲しい、などとカケラも考えていませんでした。霊的な条件と仕事をうまく両立できない自分が申し訳なくて、とにかく早く確実に終わらせて早く神様に帰りたい、って思っていました。

あと追加ですが、6のあきらめない意思が7の危機感と相互作用してお互いに更なる力をあたえているとも考えられます。

「成功体験」を信仰生活で生かすには?

上にあげた要素のなかで一番大事なのはもちろん「祈り」です。

祈りは毎日真剣にやっています。でもここまでドラマチックな経験をすると、今までの祈りの強さも真剣さも「つもり」だったのかもしれない、と考えるようになりました。

今回の祈りと普段の祈りの何が違ったのか、を考えるとやはり危機感の強さだと思うのです。

「時間内に終わらせないとヤバい」という危機感。

冷静に考えると別に失敗したって私はもちろん他の誰かが死ぬわけではありません。でもあの時はなぜか自分の命がかかっているかのように必死でした。だから全力でやりました。

今回の件は、きわめて強い危機感が決意と祈りに強力なブーストをかけた、といえるわけです。

「時間内におわらせてやる」という決意だけだったら、私の祈りはここまで強力にならなかったのは確かです。

では強力な祈りを捧げるために、もっと真剣に祈るために、危機感は必要なのでしょうか?

引っ掛かりを覚えたので、まず「危機感」の意味を確認してみます。

危機が迫っているという不安の感じ。

広辞苑

では「危機」の意味はどうかというと…

大変なことになるかもしれない危うい時や場合。危険な状態。

広辞苑

私の今回の経験の裏にあった危機感はたしかに不安と恐怖に裏打ちされたものでした。

でもあの経験を信仰生活に生かすためには「不安」があってはいけません。

不安を持つことは罪ですし、神様は「愛の心から捧げられたものでなければ受け取らない」とおっしゃっていました。

ではどうすれば?

自分に危うい事、危険が迫っていると認識した上で、不安ではなく愛から行動するにはどうすればいいのでしょうか?

ひらめいたんですけど、情報拡散にしても証にしても、自分の個性や才能をのばしていくことにしても、神様への愛を形に表せるかどうか(御心を形にして為せるかどうか)というのは、自分と自分が救えるだろう人たちの霊の死活問題です。

いくら努力したって形として世に現れなければ誰も救われません。

実を結ばなければ神様は喜んでくださらない。

神様が喜ばれる生き方をして実を結ばなければ、自分の救いを完成させることはできません。

救いを逃す可能性、って十分すぎるほど危険ですよね?文字通り自分の命がかかっています。

このように考えれば「自分に迫る危険の認識」はできます。

御言葉の中で「命がけ」という言葉が何度も出てきていましたが、こういうことだったかと今更ながら納得です。

命がかかっている問題に対処するには命がけでやらないといけません。

その一方で、神様はずっと「御言葉のすべてに従順に従っていれば必ず霊は進化・成長できるし救いも達成できる」とおっしゃっています。

つまり御言葉のすべてに従順に従っている限りは不安に駆られることもありません。

この二つをあわせると、不安をもつことなく「危機感」を持つことができます。

そして「身に迫る危険の認識(あえて危機感とはいいません)」の対象を自分だけではなく、将来の兄弟姉妹にも広げることができれば、その行為や祈りは愛からきたものになるのではないでしょうか?

神様への愛から御言葉に従うのも愛ではありますが、神様を愛することの次に大事な掟は隣人を愛することです。

上記のように考えることで聖書におけるもっとも大切な2つの掟を両方守りつつ、強力な祈りを捧げ、神様の御心をもっと早いスピードで形にして為していけるのではないでしょうか。

最後に

今回はアウトプットがなかなかできていない自分への戒めもこめて「愛を形にすること」及び「義をなすこと」に重点を置いた話をしました。

「どうやったらもっと真剣に必死に祈れるか」の答えを求め、祈って得た答えを表現するのに少々理屈をこねくりまわしたような書き方になってしまいました。

不快になった方がいましたらすみません。


最近の配信で祈りが最も大切なことと、何について祈るべきかが事細かに出ています。

「自分の祈りをもっと強力にしたい」と思う兄弟姉妹の方にこの証がその一助となれば幸いです。

RAPTさんの御言葉に出会ってない方、最近のニュースで上級国民の悪事がどんどん白日のもとに晒されて支配層が極度の混乱に陥っているのはわかると思います。

信じられないかもしれませんが、実際の所、神様が我々の祈りを聞いて起こしてくださっていることです。だって今までこんなこと一度もなかったでしょう?

私たちはRAPTさんの御言葉から正しい神様の愛し方を学んでいるわけですが、神様は神様を愛する人たちの祈りを聞いてくださいます。

「神様を愛するってどういうこと?」と気になった方は、是非一度RAPTブログの有料記事をご覧になってみてください。

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