霊感を得て先月の上旬からピアノを本格的に始めました。ピアノやその他の楽器すべてほぼ素人で、ピアノを幼稚園の時に嫌々1,2年やったくらい。
40歳をすぎてピアノを本格的に独学で学ぶようになった経緯と現時点での目標は長くなるので別の機会にアップするとして、今回書きたいのは「謙虚になること、および自分の過去を捨てる事の重要性」についてです。
神様が共にしてくださった試行錯誤(これも詳しくは後日)を経て、週日にも自由な時間を持てるようになりました。
そこで毎日祈って得た霊感のままに動画をみて音楽理論(後註参照)を学んだり、指運びの練習をしたり、初心者用のクラシック曲を弾いたりしてきました。初めて30日弱の時点で、楽譜を追ってるだけですがバッハのメヌエットと 平均律クラヴィーアのハ長調のプレリュード を弾けるようになりました。
この習得スピードが平均と比べて速いのかは判りません。とはいえ、個人的にはかつてないスピードで習得している感じがあり、毎日成長を感じることができるのでもっと学びたくなります。
学ぶことが多い時期だからそう感じるだけかもしれませんが、毎日新しい発見と感動がある、学んだことを点と点でつなげることもできている。それがすごいうれしくて楽しくて。
こんなことをできているのは私の才能とかセンスの問題では決してなくて、もちろん神様に助けを祈り求めてやっているからこそ。自慢したいわけじゃなくて、いただいている恵みのすごさに自分でも驚いています。
なぜピアノや音楽に関してこんなに学びと吸収が早いのか?なぜ、次から次へとやるべきことが思い浮かぶのか?なぜ、最初は酷く難しく見えたところ(現在パッヘルベルのカノンとショパンのプレリュード28-4を練習中)も、そんなに時間がたたないうちに解決法が思い浮かんでしまうのか?
いただいた恵みの比較のために話を変えますね。
去年の夏以来、私はTwitterで情報拡散をしてきました。 御言葉でRAPT理論を情報拡散しなさい、と言われた時、政治や経済、歴史についてはそこそこ知識があるから役に立てるかも、と意気込んでおりました。
でも情報拡散のための調べ物をしたりニュースを読んでいる時には、音楽を学んでいる時と違って「先に進む道筋が明確に見える」という経験を常にしていたわけではありません。それにそこまで恵みをもらったわけでもない。
霊感通りに調べてみたらドンピシャという経験は何度も何度もありましたが「常に」ではなかったし、逆にあてが外れたことも何度もあります。そして、自分の考えで間違ったツイートをしてしまい、御言葉で裁かれたことすらありました。
神様に言われたことを、同じように祈りながらやっている(はず)なのになんでここまで受ける恵みが違うのだろう?祈って聞いてみました。
その答えは、自分の過去の経験についてプライドや自負を捨てられたかどうか、でした。神様に出会う前の過去で得た知識を捨てたつもりでも捨てきれていなかった。
大学で政治経済をかじったし、高校時代の得意科目は歴史と英語。大学時代にアメリカ外交史のクラスで4か月で18冊の本を読まされたけど乗り切ったこともあるしなー、なんて何の価値もない自負をしつこく抱えていたわけです。
中途半端(しかも間違いだらけ)な知識しかもっていないくせに、何かを知っているつもりで高慢でした。
翻って音楽に関しては、私には才能も知識も経験もない、と徹頭徹尾身にしみています。完全にゼロからのスタートだと思っているから高慢さの入り込む余地はカケラもありません。
だから神様に幼子のように縋りついて知恵を求め、霊感のままに素直に学び、得た知識とにいちいち感動して、導いてくださったこととその内容を神様に感謝し、ただ実直にコードやスケール(音階)やそれぞれの音を体に覚えこませていったり、 楽譜の読み方や音符の解読も見たら条件反射で理解できるように努力していてそれが全く苦にならない。
神様が一緒にいてくださると感じられるから、昔だったら退屈や行き詰まりを感じてすぐに投げ出していたことも続けられる。
どこまでも幼子のように素直に神様に頼り、従順にやっている。だから神様も恵みを毎日惜しみなくくださっているし、喜んでくださっているのがわかってそれがうれしい。
今回、「音楽の私」と「情報拡散の私」の自分の心の在り方の違いを実際に体験することで、神様が求めている「自分を捨てる」基準が本当の意味でやっとわかりました。
私の音楽に対する姿勢のように、自分はゼロ(あるいはマイナス)だと心の底から自覚して、そこをスタート地点にしないといけないのです。自負とかプライドとか過去の成功体験とか、そんなものをたとえ0.1%だとしても抱えていたらアウトです。
この部分を間違えると、根本が間違っているのだから信仰がいずれはズレてしまいます。
音楽以外の場面では、捨ててきたつもりでも自負がどこかに残っていました。だから自分の一部をなかなか変えることができず、真面目に信仰生活を送っているはずなのに、「つもり信仰生活」だ、と何度も指摘される羽目になっていたのか…あぁ本当にやっとわかった。
自分を捨てることの重要性については有料記事で何度もでています。
- RAPT有料記事183(2017年6月24日)永遠という尺度で物事を考えられる人間こそ、真に知能の高い人間だ
- RAPT有料記事191(2017年7月22日)あなたたちがどう判断して行うかで、主の歴史が成功するか失敗するかが決まる。
- RAPT有料記事252(2018年2月19日)実力を身につけた者だけが、あの世でもこの世でも真の祝福を享受して生きられる。
でも本当の意味で悟れていませんでした。
終末の裁きが本格的に始まると今日の御言葉で宣布されましたが、そんな時に今まで理解しきれていなかったことを悟らせてくださったこと、何度も間違えたにも関わらず私を辛抱強く導いてくださった神様に心から感謝します。「自分を捨てる」ことに関して神様の基準をやっと悟れたので、これからすべての面で落とし込んでいける。
私のように年をとってから信仰を持った人にとって過去の自分を捨てるのは本当に大変です。それまでの自分の人生が無駄だった、と思いたくない自分がつい頭をもたげてしまうし、それまでの人生のなかで抱え込んだ荷物もたくさんありますからね。でも今は断言できます。
過去の自分を捨てない事のほうが勿体ない。
受ける恵みの次元が全く違います。本物の兄弟姉妹の方にも私のように従っているつもりでも間違っていたり、どこかすっきりしなかったり、ある罪に関しては何度も犯してしまう、という方がいると思います。
もしそれで悩んでいるなら自分の中に過去の成功体験への自負とかプライド、高慢さがないか探してみてください。もしかしたらそれで解決になるかもしれません。
神様を信じていなくても、年を取りすぎたから、と芸術などやりたいことをあきらめている方は多いと思います。「今さらやって何になる?」と思いますよね?
私もそう思って芸術全般にタッチしてきませんでしたからわかります。で、リタイアしてからやるとしてもお遊びレベルでやるのが精々…
でも、神様と愛の関係を築けるようになれば、あきらめる必要はありませんし、本気でやることにためらいを感じることもなくなります。
神様が人間に求める一番大事な教えは「心と思いと精神を尽くして神様を愛する」ことと、次に「隣人を愛する事」ですから、本気でやらないと逆に裁かれます。
そんな神様との愛の関係を築いていく方法を唯一教えてくれるのがRAPTさんの有料記事です。
今もすでに生き苦しいと思う方は多いでしょうが、これからはさらに酷くなります。阿鼻叫喚状態になるでしょう。そんなこの世の中にあって救われる方法はRAPTさんを通して伝えられる神様の御言葉に従う以外にありません。
生き苦しさを感じているなら、是非一度読んでみてください。読んでこの御言葉が真理だと悟れたひとはみんな「もっと早く読めばよかった」と言いますし私も同意見です。
皆様に神様の祝福がありますように。
(註:音楽理論ですが、西洋音楽理論の基礎を作ったのが悪魔崇拝者で有名なピタゴラスらしいです。なので深入りは多分危険。ですが音楽の基礎力をつけるには有効だと思います。音階にしてもコードにしても法則があります。それを知っていればすべてのコードをいちいち記憶する必要がなくなりますから)