前回の記事からずいぶんと時間が空いてしまいました。
前回はヨガに癒しを求めることは色々な理由で危険だし、ヨガがオシャレだという考えもファッション業界による刷り込みだ、とお話しました。
今回のタイトルは聖書の神様を信じる我々には自明の理ですが、ヨガに癒しを見出して、せっせとヨガを学んでいる方、及びなんとなく「ヨガは体によさそう」と考えている方にはピンとこないかもしれません。
ヨガに救いがないと言い切れるシンプルな理由は、ヨガが悪魔崇拝にすぎないからですけど、今回は思想的な観点から、ヨガから救いを得ようとすることがどれほど虚しいことかということを2回に分けてお話をさせていただきます。
インストラクターになるほどヨガにハマってしまう前に、読んで再考していただけたら幸いです。
なぜ人はヨガを「救い」と勘違いしてしまうのか
ヨガのファンはヨガをやるとストレスから解放され、解放感を得られる、と言っていますし、それは実際に事実です。
私の経験からの話ですが、ヨガをやると下のようなことが起こります。
- フィジカルなヨガを通して、汗をだらだらかいてみると、運動した時と同様に気持ちいい。
- 呼吸と体の動きを連動させることに集中するので(=思考の変動が停止される)、リアルな生活の息苦しさや自分が持つ根本的な問題やストレスについて考えなくても済む。
ヨガのセッション中だけはストレスを忘れられるかもしれませんが、クラスが終われば悩み多い現実がもどってきてまた心が苦しくなります。
1時間程度の苦しみからの解放なんて現実逃避に過ぎないし、本当の意味で問題解決をしてくれません。
なんと虚しい事でしょうか。
現代ヨガのあり方
「自分」へのこだわりの強さ
昨今のヨガ業界をみているとヨガのインストラクターたちは「自分らしさの追求」に焦点をあててマーケティングをかけている感じがします。
これは日本でもアメリカでも同じです。
「ヨガ」「自分らしさ」でざっと検索しただけで下のようなサイトがみつかりました。





「抑圧された自分の解放」、「自分と向き合う」、「自分らしく生きる為に」、「本来の自分らしく凛とした…」、「自分を知るために…」、「真実の自分を見つける」、「自分が…」…
まるで「自分らしさ」を取り戻したら救われる、と言わんばかりです。どれだけ自分が好きなのでしょうか。
実際のところ、悪魔崇拝者の考えに染まったままの自分になどなんの価値もないのですけどね。神様に出会う前の私を振り返ってつくづくそう思います。
これらの「自分大好き」なセールスピッチを見ますと、現代の日本人がいかに定められた型に自分をはめて生きることを余儀なくされているかが垣間見えますね。
ステレオタイプとか同調圧力とか常識と言われるものが私たちを苦しめます。(私が日本のそういうところが嫌でアメリカに飛び出したくらい。国を変えても何の解決にもなりませんでしたが…)
真面目に考える人、あるいは繊細な人ほど、決められた型と自分の個性との乖離が苦しくて悩みます。
でも世間の常識を変えようがないから、と自分を押し殺して社会の常識に合わせるから「自分を見失った」、「息苦しい」と感じてしまうわけです。
カルト思想のマッチポンプ
「KAWATAとNANAのRAPT理論」の動画で、私たちがいろいろと息苦しさ(生きにくさ)を感じながら生きなければいけなかったのは、生活のあらゆるところでカルト大本教の宗教思想が蔓延っているからだ、と暴かれました。
「女性や男性はこうしないといけない」とか、大麻やLGBTの普及とか、社員に社畜であることを強いる会社のあり方、ファッションから食べ物まで。その裏に大本教の思想(大本教は生長の家、世界救世教、創価学会などにつながる)が潜んでいたなんて驚きです。
大本教も創価学会も人間を憎んでいる悪魔を崇拝していますから、こんな教えに自分を無理やり当てはめてみても幸せになれるはずがありません。生きるのが苦しくなるのは当たり前です。
だから「抑圧された自分」を解放してくれ、「自分を見つける手伝い」をしてくれるという売り文句のヨガに惹かれてしまうのです。
本物の救いを知らなければ簡単に騙されてしまうでしょう。
例えば、ヨガ教室で教えられる誘導瞑想の中で、心を静かにして自分の気持ちの動きを内観していれば、自分を理解できた気になれます。
ヨガの教室では、「ありのままの自分を受け入れろ」というフレーズがよく使われます。こちらのヨガジャーナルの記事にあるように、「自分に対するジャッジメントをやめて自分をありのままに見よう」などというわけです。
この記事は本当に酷くて、さらにはこんなことも書かれてありました。
ーーー(引用ここから)---
そういった不必要なジャッジメントを取り払うことで、今まで見えなかったものが見えてくることもあるでしょう。“こんな自分でなければいけない”といった強迫観念をひとつひとつ取り払い、ありのままの自分が見えたら、ジャッジメントすることなくそのままOKを出してみましょう。“ダメ”な自分を我慢するのではなく、その“ダメ”を生み出している不必要なジャッジメントを取り払うのです。
良心に従った行いをしているならば、自分にOKを出すことに少しずつ慣れていきます。そして徐々に自分にくつろげるでしょう。その感覚こそが、ありのままの自分を受け入れる、という作業なのです。
人はそれぞれ違います。一定の基準と自分を比べて一喜一憂するのはやめて、そのままの自分にくつろぎましょう。自分にくつろげた時の心地よさは、毎日の充実感にもつながります。
(太文字は管理人による)
ーーー(ここまで)---
このように日々の生活の中で出てくる悩みを根本から解決するのではなく、「ジャッジメントをなくす」という名目で現実逃避することを推奨するのがヨガです。
精神的に楽になるために「ジャッジメント」を失くしていくうちに、すべての事柄を受け入れるのが正しい、という思考回路が頭に忍び込みます。
全てに「寛容」であることが善だと勘違いしてしまい、善と悪を裂くことができず、そこからなぜか悪を悪と指摘すること自体が悪だと考えるようになってしまいます。(これは悪魔崇拝者たちによる誘導です)
矛盾も悪もひっくるめてすべてを受け入れようとするから、頭がどこまでも混乱し、頭も心も精神的にも本当に地獄となります。
人間を憎み、苦しめて滅ぼそうとするのが悪魔です。善と悪を裂くかわりにすべてを受け入れさせて、人を混乱の極致に追いやるのは悪魔の所業でしかありません。
このように、ヨガの根本に流れているのは悪魔崇拝ですから、こんなものを信じて従っても幸せになれるはずがありません。
詳しくは次回に書きますがヨガの究極の目的を達成したところで、行きつく先は「生ける屍」です。
大本教という悪魔教の教えによる苦しみから逃れても、その先に待っているのは別の形の悪魔崇拝(ヨガ)、だなんて、なんというマッチポンプでしょうか。
聖書には「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としていてそこから入る者が多い。しかし命に通じる門はなんと狭く、その道も細い事か。それを見出す者は少ない」(マタイ7:13-14)とあります。
ヨガに救いを求めるのは明らかに「広い門」を通っているといえます。
ヨガの道は世の中のメディアやアパレル産業がこれでもかと売り出してるし、誰でも簡単に手を出せるような仕組みになっています。(ヨガが世界中に広がった仕組みについてはこちらの記事をどうぞ)
それどころか「あなたは健康意識が高いのね!」と周りから好意的に診てもらえます。今の世の中であなたがヨガにハマっても非難したりバカにする人はいません。
そして、自分の弱さや悪く醜いところを必死になって克服しようとするよりは、「ありのままの自分を受け入れ」て思考停止し、そのままの自分で満足するほうがよほど安易な生き方です。
それが故の「広い門」であり「滅びの道」なのです。実際に広い道を歩いたところで迷うばかりで救いにはたどり着けません。
ヨガや引き寄せの法則では、何の解決にもならない現実逃避の方法を教えます。ジャッジメントを「手放し」たところで、自分の醜さ・弱さについてふてぶてしく居直るだけで、その醜さは決して消えません。
逆に、RAPT氏を通して伝えられる御言葉で神様が教えるのは、「自分の弱さや悪や醜さの克服」という自分が抱える問題の根本的解決方法です。
耳障りは良いけどなんの発展性もないヨガの教えと、厳しいけれども私たちを確実に成長させてくれる神様の教え。一体どちらが本物の希望でしょうか?
ヨガで見つける「自分らしさ」の虚しさ
色々な「自分探し」を推奨するヨガサイトを見る限り、ヨガを通じて見つけられる自分、とはかなり些細なことのように見えます。
せいぜい自分の好き嫌いがわかるようになったり、欲望に忠実になることだったり、逆に欲望を手放すことだったり、自分がその時どういう感情や思考をもっているかわかるようになり、ありのままの自分をジャッジせずに受け入れる程度の事ではないかと。
自分が人と少し違うことを確認する程度の話で虚しいし、問題だらけのありのままの自分を受け入れる、に至ってはは自分をだましつつ問題解決もせずに妥協して生きることなわけで、それも長期的にみると虚しいです。
本当に求めていることは自分の存在の意味や理由を知ることではないのですか?
はっきり言いますが、自分の存在の意味や理由をヨガから得ることは不可能です。それは次回にご紹介するヨガの本来の目的を見れば明らかです。
私も生きる目的や自分の存在の意味を求めて色々なことを試しましたが、結局は見つけることができず虚しく罪深い日々を送っていました。
そんな私が生きる目的と自分の存在の意味を知ったのはラプトブログに出会い、聖書の神様を信じるようになったからです。
- RAPT有料記事69 (2016年5月21日)神様がこの世を創造した目的を共に成してこそ、人生の虚しさから脱却できる。
- RAPT有料記事284(2018年6月11日)我々人間がこの世に生まれてきた目的は、霊魂の救いと成長のためだ。
聖書の神様が人間を造った理由は、人間が肉体をもっている間に霊魂を救い成長させるためです。
そしてそれは救われた人間たちと神様が天国で永遠に愛し合うためでした。(詳しくは上の記事をお読みになってみてください)
それなのにアダムとイブはサタンに騙されて堕落し、その後の歴史でも人間はさんざん神様を裏切って神様を怒らせ、悲しませ続けてきたのです。
そんな神様の心情と深い愛がわかって、なんとしてでも自分の霊魂を成長させて救い、神様に出会っていない人々を神様につなげることで神様の願いを叶えて差し上げたい、と思うようになりました。
神様にせめて恩返しをしたい。それが今の私の生きる目的です。
神様の御言葉に従っていくことで、心が満たされるようになりました。神様の愛さえあればほかのものは必要ない、というのが本音です。
- RAPT有料記事156(2017年3月20日)神様の愛だけが人間の心を完全に満たすことができる。
- RAPT有料記事229(2017年12月2日)あなたたちは人間の愛を求めてはいけない。神様の愛だけを求めなさい。
それくらい神様の愛はパワフルなんです。
自分の生きる意味や理由を真剣に探している人は一度是非お読みになってみてください。有料記事ということでためらう方もいるでしょうけど、さわりの部分は無料で読めますから。
長くなったのでここでいったん切ります。
今回はヨガを救いと勘違いさせるものはただの現実逃避にすぎないこと、ヨガに癒しや救いを求めてしまうくらい私たちを苦しめている息苦しさがカルト宗教から来たものであること、現代のヨガでは「自分らしさの追求」を全面に出すけれど、ヨガを使って見つけられる「自分らしさ」が実に虚しいものであることについてお話しました。
次回はヨガ好きな人がありがたがる古代のヨガにも救いがない事について検証します。
これを読んでくださった方がヨガで得られる(と錯覚する)癒しや救いや慰めは人生という単位でみると空虚なものにすぎない、ということに気づいてくれたら幸いです。
皆さんに神様の祝福がありますように。
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