今回の記事は前回の続きになっておりますので、お読みになっていない方はまず、パート1をご覧ください。
前回は現代のヨガの問題点について書きましたが、今回はインドで伝わっていたような昔ながらのヨガの問題点について書きます。
私がストレス解消とデトックスを兼ねてヨガの教室に通っていたころ、アメリカのヨガはストレッチや体を強くする、などの肉体的なことに主眼が置かれていました。
でも一部の真剣なヨガファンはこういうフィジカルなヨガを薄っぺらいアメリカナイズされたヨガと断じており、昔に教えられていたヨガに立ち返れば古代の叡智が得られる、と考えていました。
お恥ずかしながら私もその口でした。ヨガをやって一時的に気分がよくなっても問題解決はしてないので、心を平安に幸せに生きられる知恵を求めて伝統的なヨガに興味をもっていたんです。まぁヨガの最中に脱臼したおかげでヨガから離れられたのですが。
あれから10年以上が過ぎ、今は現代的ヨガも瞑想やスピリチュアルなことと完全にセットになっています。
若い人たちは深く物事を考えて決断するときに普通にMeditate onという言葉を使うし、ストレス解消の方法としての「マインドフルネス」が当たり前になってきています。
そんな彼らがより深い心の平安を求めて伝統的なヨガに興味を持つのは(残念ながら)自然な事かもしれません。
今回は伝統的なヨガにも救いや心の平安や幸せに生きる方法は存在しないことと、伝統的なヨガこそ宗教的である事などをお話します。
古代からのヨガの究極の目的
現代ヨガでは「自分らしさ」を大切にし、自分らしさを追求することがヨガの目的であるかのように見せかけていますが、本格的ヨガの教えのベースとなっているヨガ・スートラではなんと書かれているかご存知ですしょうか?
原本がサンスクリット語で書かれているので訳は色々ありますが、一番強烈だったのはこちらの日本語の訳でした。
曰く、
「ヨガとは心(チッタ)の作用を止滅させることである」
停止させるだけじゃなくて、止めて滅ぼす、です。
過激ですね。
このサイトの解説によれば、「チッタ」は
- 反射的・本能的な心の動きや感情
- 照合、反応、推論、創造する心の動き
- 「私がいる」という自我意識
の三つを指すそうです。
この「チッタ」の意味をヨガスートラの一節に当てはめると、つまり「ヨガとは自我意識と創造性と感情の動きを止滅させること」
では「チッタ」を失くした先に何があるのでしょうか?
先ほどのサイトの別ページによりますと
ーーーー以下引用ーーー
見る者
これは一体なんでしょう?
言葉として説明するのは比較的カンタン。
ヨガコトバの世界では意識とか、純粋鑑賞者
・・・サンスクリットではプルシャという言い方をします。
僕たちが普段使っているココロという機能。
自分の意識の全てだと思っている・・・反応・知性・自我意識。
プルシャとはそれと全く別個にある、ただ見る存在。
事象に巻き込まれることなく事象を眺めている存在。
ココロの反応に巻き込まれることなくココロの反応を眺めている存在。
「仏性」、「永遠」、「魂」。
様々な文化の中でどんな呼び方をしていようとも、それは自分を越えたところにある「それ以上」という存在の自分。
それを認識できるのは、ココロ(チッタ)の働きが消え去ったとき。。。
その時、僕たちの本来の在り方・・・純粋鑑賞者・・・プルシャに落ち着くことができる。
その境地に在る事こそがヨーガである。と。
ーーーー(引用終わり)----
プルシャという「心の反応などの事象に巻き込まれることなく、それを眺めている存在」になることがヨガだ、ということらしいです。
つまり喜びや希望も持たず、個性と才能を生かして創造することもしない「肉の塊」になることがヨガのゴールです。
そんな人生のどこがいいのか、私には理解できません。
プルシャとは?
せっかくですからプルシャについてもう少し深く掘り下げてみてみます。
プルシャという言葉には、いくつか意味があるそうです。
ウィキペディアによれば
- ヨガの世界(正確に言うと二元論で知られるサンキャ哲学。後にヨガ哲学と合流)では「精神原理」のことで、「物質原理」であるプラクリティと対比されています。物質的なものを一切持たない純粋なもので永遠に変化しない。(太文字は管理人による)
- サンスクリット語ではプルシャは「私」「霊魂」「自我」を意味する。
- インド神話において世界の最初に存在した原人で、「リグ・ヴェーダ」によれば、プルシャから太陽、月、神々や人間が生まれたそうです。シヴァとかヴァルナといった神々(悪魔だけど)よりすごい、って事らしい。千の目、千の頭、千の足をもつと言われてる。
要するに、永遠に変わらない原理(インド神話によれば宇宙や人間や「神々」を作った素材)と同化することとがヨガの目的だという事です。
これって現代ヨガで言うところの「自分らしさの追求」とは真逆ですよね?
「自分らしさ」をつきつめると「世界でたった一人の自分」となります。反対に伝統的なヨガで求めるものはその「自分らしさ」がなくなって、曖昧な「精神原理」と同化することです。
これは明らかに矛盾です。
先ほどご紹介したヨガスートラの一節を思い出してください。
「ヨガとは心(チッタ)の止滅」と書いていました。
繰り返しますが「止滅」です。一時的に止めるのではなく滅ぼすのです。
創造性や感情の動きを完全になくした人間が、一体どうやって個性を持てるのでしょうか?
心がない(及び何に対しても心が動かない)のであれば、その人はただの肉人形にすぎません。喜びすら感じることがない肉の塊です。
「求めるのはプルシャと一体化することの至福体験だ」という人もいますけど、「至福体験」といっても、それが永遠に変わらないのであれば逆に拷問になるのではないでしょうか。
最初は良くても、永遠という時の中では確実に飽きます。永遠に変化のない=生きてるのか生きてないのかわからない状態が本当に至福だと思いますか?
逆に聖書の神様は常に成長し、霊肉ともに常に新しくなりなさい、と教えてくださっています。
神様ご自身が常に成長されて変化なさっている方ですから、神様を愛する人間にも同様に成長して変化してほしい、と願っておいでです。
自分が変化し成長していくことも、人生の本当の喜びであり希望です。
もう一つ付け加えると(こちらの方が大事ですが)、私たちが「成長したい」と願う動機が、自分の私利私欲ではなく神様に喜んでいただきたい、という神様への愛に基づいているので、どこまでも次元が高くなれます。神様がついているからどこまでも成長できるのです。
従うなら確実にどこまでも成長できる事と、プルシャと同化したまま永遠に変われない事とどちらが本当の幸せでしょうか?
現代ヨガは巧妙に隠された宗教への入り口
ヨガ教室に通っていたころ、宗教に偏見をもっていた私は現代のヨガは宗教性がないから良い、と考えていたものですがそれは間違いでした。
ヨガ・ジャーナルからの興味深い記述をふたつ紹介します。
ーーー(引用ここから)---
ヨガの発祥はインドの発祥と同じくらい古い。多くの考え方や様式を含む広大な学びであるが、そのすべての根底にあるのは、一人一人の小宇宙としての魂(アートマ)と大宇宙の魂(プルーシャ)である宇宙意識との繋がりや一体化の理念だ。この一体化は精神と身体と心の統合によって実現する。(太文字は管理人による)
ーーー(ここまで)---
さらに、二つ目の記事から…
ーーー(引用ここから)---
ヨガはもはや不変のものではありませんし、時間のなかにとどまっていません。それでいいのです。(中略)時は流れ、人々も変化していくということです。どんな文化も、人が互いにつながり合う方法も、潮の流れのように移り変わっていくのです。
ヨガの目標がヨガ(一緒になること、結合すること)にあり、その全面的な目的が自覚や意識に少しずつ近づいていくことにあるとしたら、ヨガには正しい方法も間違った方法もないことになります。(太文字は管理人による)
ーーー(ここまで)---
結局、現代ヨガも根本的に目指すところはプルシャとの一体化であり、「自分らしさ」へのフォーカスは「時代の変遷」に合わせたものにすぎない、ということです。
社会や常識からの押し付け(元ネタは悪魔教・大本教の教え)に疲れ果てた現代人に「自分らしく」生きることを推奨してヨガを救いと勘違いさせておきながら、いつの間にかその自分らしさが消え去る「精神原理」との一体化という目的にすり変えています。
ヒンズー教の神話だとプルシャは人間や神々を作った素材を指します。つまりヨガで言うところの「精神原理との一体化」とは神々との同化のこと。
ここまできたらヨガは完全に宗教ですよね。
宗教嫌いの現代人に合わせて宗教くささがないことが売りのはずなのに、いつの間にかヒンズー教に引きずり込んでいるではありませんか。
そしてヨガはマインドフルネスやクラス内でのグループ瞑想を通して仏教の教えにも引きずり込んでいます。
日本でもヒンズー教の神がどういう経過か仏教の菩薩やら観音になったりして、親和性が高いことがわかりますが、歴史を知らず現代的ヨガをやる人にとってはどちらの宗教も同じようなものなんでしょう。
ヨガを究めた「聖者」たちの実像
伝統的なヨガはヒンズー教で、熱心なヨギはプルシャやその他のヒンズー教の「神々」との一体化を目指しています。ここでは、その過程で奇行を行い、なぜか「聖者」扱いされる人達をご紹介します。
40年間右手上げっぱなし
たとえばこの人は40年間ずっと片手をあげっぱなしだそうです。

片手を上げたままにすることで一体何が変わるのでしょうか?手がしびれて感覚がなくなりそうですけど…
これではただの苦行にすぎません。片手が使えないとなると色々と不便でしょうに。
そして左手ではなく右手を使えないようにしているところに、これをするように霊感を与えた存在の悪意を感じざるを得ません。
インドのあまり経済が発達していないところ(特にヒンズー教圏)は、トイレットペーパーもないので用を足したあと左手を使って素手で処理するそうです。それで左手は不浄な手扱いされ、左手を使って食べることはない、とも。彼らは素手で食事をすることが多いです。
この人は右手を40年使えなくしています。不浄な手で食事をしているわけです。片手だけで食事前や用を足した後に十分に手を洗えるとは思えませんから、この人は不浄なものを口にしているのです。
ヒンズー教は悪魔崇拝で、神のフリをした悪魔は人間に汚いことをさせて動物以下に貶めます。
今回、ヨガの本来の目的を突き詰めるとヒンズー教に通じる、とお話させていただきましたが、突き詰めた産物のひとりがこの男性です。
ヒンズー教の世界では輪廻転生があるので、来世でより良い人生を送るために今の人生でこういう苦行をすることが尊いと考えられているのでしょう。でなければこういう人が聖者扱いされるはずがありません。
でも実際のところ輪廻転生は存在しません。
片手が使えないとなるとかなり厳しい人生だと思います。それを彼は「来世」を信じて耐えているのでしょうが、実際には死んだ後も同じような人生を生きることになります。
- RAPT有料記事279(2018年5月26日)この地上で地獄のような生を生きた人は、死んだ後も霊界で地獄のような生を生き、この地上で天国のような生を生きた人は、死んだ後も霊界で天国のような生を生きる。
片手を使えないようにして、まともなことを特になすこともなく人生を過ごしているこの人は、来世などないと知ったときどう思うのでしょうか。
70年以上飲食していないプララット・ジャニ氏
ジャニ氏は70年以上食事も水もとってない、ということで「聖者」扱いされている人です。

こちらによれば、1929年生まれで、7歳で家を出てジャングルで住み、12歳の時の「霊的な経験」を経て、アンバ(戦の女神ドゥルガの別名。ドゥルガはヨガを作ったとされるシヴァの妻でもある。こちらより。)に仕えるようになりました。
それ以来、ドゥルガに仕えるために女装し食事も水もとらなくなったそうです。
なぜ女装することが必要と思ったのか不明です。彼が80代の時にインタビューされている動画をみたのですが、女性がつけるブレスレットにマニキュアまでしていました。(この動画の23:15あたり)
不自然なところはまだあります。
彼が地元では「偉大な母」として知られていたこと。そしてジャニ氏の額の赤い点は、本来ヒンズー教徒の既婚かつ夫が存命の女性がつけるものであること…
行為が伴っているかはともかくとして、頭の中で性的倒錯を起こしてますよね?LGBTのうちのTであるトランスジェンダーの先駆けというか…
上の写真を見ればわかりますけど、ジャニ氏の目がちょっとイってる感じがしませんか?人間が死んだあとに持っていけるのは自分の頭脳だけだそうです。
こんな自分の性差が混乱したままの脳を霊界にもっていっても死後の世界で幸せに生きられるとは思えません。
少し話を変えます。
LGBTの市民権がどんどん大きくなり、アメリカはもちろん日本でも不自然にもてはやされています。
ですがLGBTは利権にすぎません。そしてその裏にはカルト宗教がいます。
上の記事では大本教と生長の家が取り上げられていますが、その後の調査で創価学会が本丸だと判明しました。池田大作は元々生長の家の信者だったのです。
話を戻します。
ご紹介したように、インドにはこういう一点特化で奇天烈なことをやる人がいます。彼らがやることと言ったら瞑想する事、ヨガをすることとヨガを教えることくらい。
この人たちが人間や社会のために何かを作り出したり、発展させたりすることはありません。
彼らが目指すものは永遠に変化する事のない、心の作用が止滅した「純粋観察者」という名前の肉の塊ですから、発展させるモチベーションもない、ということでしょう。
そして彼らがフォーカスするのはどこまでも自分自身です。自分が神と同化できるか?ただそれだけです。人を救うために積極的に働きかけたりはしません。だから日がな一日座って瞑想ばかりしている。
このような一点特化な人たちがありがたがられるのは、彼らが普通の人間にはできないことをしていて、その中に超常的な力が働いていると感じられるからでしょう。
でも、ちょっと考えてみてください。
この人たちに超常的な力が働くからといってそれが私たちの人生になんの関わりがあるでしょうか?彼らがの経験や教えが私たちの人生を変化させてくれる事はありません。彼らの教えになんの力もないからです。
人間に超常的、あるいは神の力が働いていることがありがたい、と思うのであればラプト氏が今までやり遂げてきたことを考えてみてほしい。
ラプト氏は2014年に神様から使命を与えられて以来、2年以上毎日膨大な量と質の記事を毎日更新し、この世界が悪魔崇拝者たちに支配されていること、この世のからくりを暴いてこられました。
いまや日本でも「悪魔崇拝」という言葉が普通に使われるようになっています。真実を知り、嘘から解放されて多少は楽になった人も多いのではないでしょうか?(すべての嘘から解放されないと完全には楽になれませんが)
2016年の10月から神様からの啓示を直接受けて宣布するようになり、さらにこの世を支配するイルミナティたちや工作員や悪人どもの裁きを宣布してこられました。例えば…
- RAPT有料記事256(2018年3月5日)2023年まで待たずともサタンの全勢力を滅ぼすことも可能だと考えて、サタンの滅びを徹底的に祈りなさい。
- RAPT有料記事373(2019年5月11日)「令和」という時代に、イルミナティは全ての悪事の総仕上げをしようとしているが、主はこの時代に彼らを滅ぼそうとしておられる。
- RAPT有料記事376(2019年5月25日)私たち義人がイルミナティの滅びを祈り、天の文化・芸術を成していくなら、イルミナティは速やかにこの世から居場所を失って滅び去るだろう。
- RAPT有料記事501(2020年9月28日)主がこの地の支配権を握り、悪人たちを厳重に包囲したから、悪人たちは様々な災いに打たれ、急速に力を失っていくだろう。
ラプト氏が御言葉(神様の言葉)を宣布して、その通りに実際に歴史がうごいています。
今の政治や経済の混迷を見れば明らかですが、イルミナティは明らかに力を失い、滅びに向かっています。
力があるように見せかけているだけで、実態はボロボロ。
中国がその典型ですね。詳しくは下の動画をごらんください。
自分たちの欲望を満たすために庶民から搾取し、苦しめる事しか考えていないイルミナティや悪人たちが滅びれば私たちの生活はどれほど良い方向に変わるでしょうか?
イルミナティがここまでガタガタになったのは、この終わりの時に神様が働いてくださったからです。これこそ本物の神様の力です。
ただし、神様の御言葉に100%忠実に従う人、及び従おうと努力する人でなければこの終わりの時に裁かれます。
厳しい話ではありますが、それ以外に幸せに生きる道はありません。
でも神様の御言葉は厳しいだけではないのです。従えば神様は恵みをくださいます。その恵みがあればほかのものはいらない、と思えるほどのものなんですよ。
本当に真剣に幸せになりたいと思っているのなら、一度是非ラプトブログをお読みになってみてください。こちらからです。
今回と前回の記事でヨガが思想的にもどれほど救いがないのかをお伝えしました。真実の救いは本物の神様のところにしかありません。
皆さんに神様からの祝福がありますように。