怠惰の罪についての考察とビフォーアフターについて

11月1日の配信を聞いて悟った怠惰の罪についての考察です。

人間はなぜ怠惰になるのか。どうして怠惰になりがちなのか?

11月1日の配信では、神様に愛される人生は生きるのに必要なものはすべて神様から与えてもらえるけど、愛されない人生は神様からの助けを得られず全部自分でやらないといけないから、運に左右されてもらえるかもわからないおこぼれを探し続ける大変な生になる、とありました。

配信を聞いて、人間がが怠惰になる理由の一端には、神様に愛されていない人生を送っているから、ということがあるのではないか、と思いました。 (怠惰の罪は神様を信じるようになったらなくなるような単純な罪ではありません。サタンからも攻撃されるし、自分の弱さも出てきてしまいますので)

野良犬ということは野生動物なわけで、昔は人間から愛されていたのかもしれないけど放置されて野生化した犬のことです。

野生動物は生存するのに必要な餌から寝る場所まで、すべて自分でみつけないといけません。しかもいつ襲われるかわからないから、寝ている時ですら警戒が必要です。つまり心休まる時も場所もない。

そんな生活を毎日していたらいずれは疲れ果てて体力と気力を温存するため、サバイバルのために必要最低限な時以外は楽したい、と自然に思うようになるでしょう。闇雲にえさを求めて走り回っても餌を得られません。お腹がすく(報われない)のは辛いです。だからより楽に得られる利を求めるようになり、楽して最大限の利を得ることを「賢い」と勘違いするようになる。根本的な意味で怠惰になるのです。

このことは実際、人間にも当てはまります。

昔のことなので忘れてしまいがちですが 、神様に出会う前の私も、自分のサバイバルのため、家賃や食費や被服代や美容代や趣味を賄うため、老後に備えて貯金するため、自分が幸せになることに必死で他人(自分にとって大事ではない人、という意味)の事を思いやる余裕はありませんでした。

いつも気を張り詰めて警戒しているから疲れるし、疲れるから休みたくなる。簡単に疲れるから、実入りがよさそうな話や最低限の努力で最大の結果が得られるような、簡単に成功できる成功法則を求めました。

成功法則を学んだり探したりする時間を使って実力をつける努力をすればよかったのに、その労力を惜しんでしまいました。努力したところで、報われない可能性の方が高いですし、移民として生きてきて理不尽な目にあったことは多々ありましたから。結果、根本的なところで怠惰になってしまった、というわけです。


生活していると、「面倒くさい」「疲れた」「やる気がでない」「後でやろう」といった感情がわきあがりませんか?

当時の私の大きな悩みのひとつはモチベーションのサイクルの上下が激しいことでした。やる気があるときは前に進めるのですが、やる気が出ないときは何もかもが面倒に思えて仕方ありませんでした。それでも仕事は無理やりやっていましたが、その分プライベート時には反動が酷いものでした。「めんどくさい」が口癖になっていたくらいです。

やる気が乗らないときの私は、プライベートでは自分に負けて一日をだらだらを過ごして色々と先のばしにしてしまい、週末が終わる間際の日曜日の夕方にせっかくの休みを無駄に過ごしてしまった事を後悔する、というパターンが多かった。

日曜日の夕方に「次の週にやるべきことリスト」を書き上げていましたが、そのリストの長さにうんざりしていました。加えて次の週にやるべきことをこなしていても、リストに残っている他のことが気になって集中しきれない、という悪循環もしばしば出てきて精神的にさらに追い詰められていたものです。


神様の愛を知ってから信仰を持つようになり、神様が喜ぶ神様の愛し方をラプトさんの有料記事で学ぶうちに怠惰の罪の恐ろしさを改めて思い知りました。

怠惰なままでは、生きていても時間が無為に流れるだけで何も為せません。ただ存在して、働いて食べて子育てをして寝て死んだ、みたいな何も残せない人生になってしまう。疲れているから、と週末にやすんでばかりいるのも、せっかくの週末の時間をウィークデイの憂さ晴らしをする事に使うのも虚しいものです。本能のままに生きる野生動物と変わらないではありませんか。

ここでも11月1日の配信とリンクします。好き勝手に生きて神様に放置される人生を送っているから安倍政権の悪政に翻弄されて、自分の事しか考えられない野生動物同様の生き方をする羽目になってしまいます。

せっかく人間として生まれてきたのにそれでいいはずはありません。自分の個性と才能を生かして伸ばして、自分ではない誰かの役に立てる人生を送れたら、どれだけ素晴らしい人生になるだろうか、と考えたことありませんか?

神様を愛するようになると、それができるようになります。神様に愛されて心と霊魂が満たされ、衣食住や老後の生活について思い煩わなくて済むようになり、その他もろもろの不安から自由になると、精神的な余裕がでてきて自分や自分にとって大切な人以外の人にも目が向くようになります。それで神様にとっても、他の人にとっても有益を与える人間になりたい、と心から願うようになります。

自分のために自分の才能を伸ばそうとすると限界にぶつかり、乗り越えられずにあきらめてしまいますが、神様を愛するがゆえにやると愛が原動力なのであきらめることはありません。それに神様が限界を乗り越える力をくださいます。

神様はラプトさんの生きざまを見せることでそれが可能なのだと教えてくださいました。

一人でも多くの方が神様に出会い、ラプトさんが伝える御言葉を通じて神様と愛し合う方法を学び、幸い多い人生を送れるようになることを祈ってやみません。

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